「手塚国光」と記された名前の下の11桁の番号を半分まで押したけれど
そこから先が続けられずに携帯を閉じた。
一時の心地よさは儚いもの。朝が来れば醒める夢と同じだ。
何度そこへ逃げ込んでも、現実は何も変わらない。


今、私が会うべき人はこの人じゃない。
私が本当に会わなくてはいけないのは・・・


閉じた携帯を再び開いた。




* * *




考えて考えて 「さよなら」 とだけ打ったメールを『彼』に送信した。
勿論、これだけで済ませるつもりはない。
メールで一呼吸置いたのは直接話す時に躊躇ってしまうだろう、その刹那を封じるため。
結論を一番先に突きつけることで退路も断った。もう戻れない。
そうしなくては前に進めない。



「我ながら、情けないわよね…」



あの夜、手塚と言う男は私を女将軍だと例えたけれど
私はそんな猛者でも勇者でもないごく普通の女。
恋人に不満はあっても、いざ別離となると思い切れない臆病な女。
ううん、違う。本当は臆病なフリをしたずるい女。



『彼』は模範的な恋人ではないけれど、とても魅力的な男性だ。
キュートなワイルドさは心憎いほど女心を揺さぶる。
それに天賦の才能としか言いようの無い稀な力を存分に発揮して
プロのテニスプレーヤーとして世界の強豪を相手に華々しく活躍している。
そんな『彼』を恋人にしている優越感。
それを失うのが惜しくなかったか、と言えば嘘になる。
彼の知名度が上がれば上がるほど、くだらない優越感が
純粋に『彼』を想う気持ちを少しずつ濁していく。
そして年下で奔放な『彼』に、物分りのよい恋人として愛情を注ぐ事が
幸せだと思うようになった。
それがまるで私の使命であるかのようにも感じて
そんな大人ぶった自分に酔っていた。


「バカよね。本当に・・」


でも酔いはいつか冷めるもの。冷めたら現実が見えてくる。
その時が来ていたのを思い知らされたのはあの 手塚 という男に出会った夜。
強く乞われて、激しく求められて、深く包まれ優しく護られるような抱擁に
安らかで穏やかな気持ちになった。こんな事は初めてだった。
仮初めの戯れだというのに・・・



強く逞しい腕の庇護の下で感じる安堵感と
じわじわと解され暖められていくような心地よさが
愛されている事を実感させてくれた。
本当はずっとこんな風に愛されたかった。
互いを深く信頼し大切に慈しみ愛しあう。そんな関係になりたかったのに
『彼』は愛することより愛されることを強く望んだ。



ねえ、そうでしょう? リョーマ ――



その心の呟きが聞こえたかのように鳴り出した携帯の
ディスプレイに浮かび上がったのはリョーマの名前だった。




* * *




「何コレ、どういう意味?」



挨拶も名乗りの一言もなくいきなり会話になる相変わらずの不遜さも
別れを決めた私にはさほど不快ではないのが不思議だ。



「意味は一つしかないと思うけど」


『さようなら』 に別れることより他に意味があるというのか。


「本気?」
「ええ」
「あのさ……これで済むと思ってんの?」
「思ってないわ。ちゃんと会って話すつもりだった。でも居所がわからなかったから・・」
「空港、来なかったじゃん」



居場所を知らせなかった自分じゃなくて、空港へ行かなかった私を責める。
冷えた気持ちが一層冷えて硬くなっていく。



「来てくれとは書いてなかったわ」
「へえ…そういう事…――



ふーん、と意味ありげに一人で納得した彼の真意がわからない。



「何?」
「今から行く」
「ダメよ!来ないで」
「なんで?会って話すつもりだったって言ったじゃん」



確かにそうだけど、今この部屋に彼を招き入れてしまったら・・・
たぶん納得していないだろう彼はそのまま居座ってしまうだろう。
そして押し切られてしまう。それじゃ元の木阿弥だ。



「…わかった。じゃ私がそっちに行く。いい?」
「別にいいけど…」
「今、どこ?」



告げられたのは聞き覚えのあるホテルの名前。
ホテルの部屋で二人きりになるのにも抵抗はあるけれど仕方ない。
リョーマはプロ宣言をし海外のツアーに参戦するようになって
借りていた自分の部屋を引き払ってしまった。
彼の両親は彼がまだ高校生の頃にアメリカへの永住を決め渡米した。
だからリョーマが日本で滞在する時はホテルか、私の部屋に居候していた。
それを嬉しくも誇らしくも思っていた。
仲の良い先輩の家でもなく、従姉の家でもなく、私の部屋に帰ってくる。
その事実が自分は彼にとっての特別な存在なのだと自惚れさせた。


でも、それは私の独り善がりだった。


リョーマが帰国の連絡を寄越すのは、ただ迎えの足と寝泊りする場所を
ラクに確保したいだけだったのかもしれない。
彼にとって私は都合のいい女でしかなかったのかもしれない。
そんな事は今まで思ってもみなかったのに、冷静に考えれば考えるほど悪い方へと思考が傾く。



けれど、もうそんな事はどうでもいい。
今日で終わりにすると決めたのだから。



私でない他の誰かで済むのなら、なにも私と付き合う意味はない。
私は愛した人のNo.1になりたいんじゃない。only one になりたい。
都合よく使える女なら他にもいるはず。
愛されてばかりで愛することを知らない男なら、いらない。



吸い込まれるようにホテルの地下の駐車場に入り、車を停めてエレベーターに乗り込んだ。
今日は逢瀬の為じゃない。彼との関係を清算するために此処へ来た。


しっかりするのよ、


バックの内ポケットに忍ばせてきた例の名詞がお守り代わり。
気持ちが弱ってしまわないように。




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